回想 〜義父との想い出〜
今年二月の初旬、妻の父親が天国に召された。
私が退院した翌週のことだった。
義父は昭和一桁生まれ。この世代の人はみんな苦労人で、義父も例外ではなかった。
負けん気の強かった義父は、精密機械の測量関係の会社に就職し、数年後に独立自営した。
個人経営の小さな会社であったが、一国一城の主人として二人の愛娘を育てるため昼夜を惜しむことなく懸命に働き続けたそうだ。
明るい性格でカラオケが大好きな義父だった。
我々が結婚した当初は、馴染みの寿司屋やカラオケバーにもよく連れて行ってもらった。
休日には何度か義父の測量の仕事を手伝いに得意先まで同行した事がある。
大きな工場の測量計をチェックし記録する義父の姿は、誇りと自信に満ち溢れていた。
長女の亭主(←私のこと)はサラリーマン。次女の亭主もサラリーマン。
息子のいない義父は、できれば自分の会社の後継を娘婿にして欲しかったんだと思う。
しかし、娘達の今ある生活を尊重して会社は自分一代で終えることを心に決めたのだろう。
頭脳明晰な義父だった。
独立後も働きながら夜間学校に通い知識の習得に努めたそうだ。
九十歳を過ぎてもスマホを使い、携帯のLINEで娘たちと連絡を取り合っていた。
新聞に掲載される「数独(ナンプレ)」を毎回解いては新聞社に応募していた。
どこで情報を得るのか芸能界のゴシップは、ほぼ知らないことは無かった。
頭は冴えわたっていたが、病気がちな義父だった。
何度か手術を行なった総合病院と連携できる介護施設で晩年を過ごした。
大腸癌や心臓バイパス手術などで入退院を繰り返し、総合病院のICUでは常連だった。
何度か『もう最期か。。。』と思うこともあったが、その度に復活する生命力の強さを持っていたのだ。
そんな義父も九十を過ぎてからは体調を崩すと、やはり辛そうだった。
コロナ禍での晩年は介護施設での面会もままならなかったが、会えば気丈に振る舞っていた。
今年二月も最後の入院を終えて退院した際は、付き添った私の術後病状を逆に気遣ってくれた。
義父は、三月の終わりに四十九日を迎える。
三十年前に亡くなった私の父と天国で出会って
妻や私達家族との思い出話に
花を咲かせてくれればうれしいな。
合掌